詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ佛にならざる故ぞかし。自身佛にならずしては父母をだにも救い難し。
目連が色身は父母の遺體なり。目連が色身佛になりしかば父母の身も又佛になりぬ。
宗祖日蓮大聖人御聖訓 (盂蘭盆御書)
「喜捨」(きしゃ)という行動=蔵の宝は死後の頼みとならない。執着の心から離れ喜んで供養する
さて、お釈迦様のお弟子の一人に目連尊者という方がいらっしゃいました。その母(青堤女)は目連尊者には大変優しく、いい母親でしたが、他の人にはとても「物惜しみ」をしました。生前母は、托鉢の行で訪れたお釈迦様に、差し上げる食べ物があるにも拘わらず「私のところには差し上げる物が無い」と言ってご供養をしませんでした。そのような物惜しみをした、「慳貪の罪」により母は餓鬼道に堕ち、五百生の間、欲しいものが手に入らない、餓鬼界の苦しみを受けました。この母の苦しみを救うために目連尊者はお釈迦様の言い付けに随い、七月十五日に大勢の聖僧を招き百味飲食を供養致しました。この供養の功徳によって母は餓鬼道からは救われました。しかし、餓鬼道からは救えても、成仏という最高の境地に導く事はできませんでした。それは、目連尊者自身が母の因縁により「慳貪の罪」があり正しい修行をせず未だ佛になっていなかったからです。
正しい修行に立ち帰る=ご本佛釈尊は佛になる(成仏)教えとして唯一、法華経をお説きになりました。そこで、目連尊者は法華経の説の如く修行され、南無妙法蓮華経を唱え、母を供養しました。その時初めて目連尊者自身も、法華経の功徳を頂き、同時に母も成仏したのです。
日蓮大聖人は本仏釈尊の遺命を受け、私たちの口に南無妙法蓮華経の仏種を入れんと励まれています。法華経を信じ、お題目をお唱えした時、縁あるご先祖と私たちは同時に信行の功徳により佛の境地で生き続けることができるのです。
「慳貪」(けんどん)= 欲深いこと、思いやりのないこと。私たちは兎角、自分が出せるもの、例えば労力・時間・智慧などそして思いやりや愛情など全てのものを出し惜しみする傾向があります。とても不思議なことですが、世の中は自分が欲しいものをまず出すとそれが、お友達を連れて自分の所に帰ってきます。お金の欲しい人はお金を出してみる、労力の欲しい人は誰かを手伝ってみる、優しさが欲しい人は誰かに優しくしてみましょう。